关于谷崎润一郎的阴翳礼赞的日文原文

山里向茶 2021-11-07 10:36 编辑:古才 194阅读

  经过我反复查找,竟然找不到这本评论集的原文。就只有这些了

  崎润一郎
  『阴翳礼赞』
  1946 创元社・1975 中公文库


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  若き日の中上健次が谷崎の小说をつかまえて「物语の豚」とあしざまに言っていたことがあった。これはさすがに中上の若书きで、その后はそういうことを言わなくなった。
  だいたい谷崎润一郎は、业界では“大谷崎”などと言われて、长きにわたって超越的な扱いをうけてきた。谷崎もそのうえにふんぞりかえるところがあって、たとえば川端などとはずいぶん処世のちがいを见せつけたものだった。
  しかも中上健次が登场してきたころは、谁も谷崎などを论じる者がいなくなっていた。とくにフランス现代思想を少しでも啮った者には、谷崎の业绩は「物语の豚」の一言で片付けられてもしょうがない雰囲気もあった。当时は「大いなる物语の终焉」というポストモダン思想こそが流行していたからだ。

  ぼくはどうかというと、実は谷崎にゆっくり取り组んだことがない。
  嫌いなのではない。けっこう好きなのである。いつかそういうことをしようとおもっているのであって、敬远しているわけでもない。
  とくに『小僧の梦』『二人の稚児』『小さな王国』ときて『母を恋ふる记』『少将滋干の母』とつづいていく少年记にはもともと感叹するものがあり、その一方で、『刺青』『春琴抄』『痴人の爱』から『键』『疯癫老人日记』におよぶ耽美的系谱にはつねに异様に惹かれるものがあったので、いつかこの二つをつなげて考えてみたいともおもってきた。が、なかなかその気分になれないでいる。
  最近、中公文库が「润一郎ラビリンス」と铭打って、谷崎の短编中编を主题别に编集したものが10册ほど出てきたので、これさいわいと、ときおり日曜日などにひっくりかえってそれを摘まんで読んでいると、これまで见えなかった谷崎がいろいろ见えてきて、それもまたひっかかってくるのであった。
  そんなわけなので、この「千夜千册」にはぜひ谷崎の代表作をひとつ入れる必要があるのだが、ここではそうしなかった。その理由を以下に书く。

  実は谷崎润一郎には、いささか気にいらないものがある。日本趣味の解说ぶりなのである。
  『吉野葛』や『蓼喰ふ虫』や『芦刈』などはまだいい。これらは小说仕立てになっている。そこが救われる。
  たとえば『吉野葛』は、亡き母の面影を慕っていた津村が吉野の奥に母の生家をさがしあて、远縁にあたる女性との恋にいきつくというような大筋なのに、これにさまざまな古典の题材をめぐらせ、おまけに物语の冒头では吉野の自天王の因縁の话が出てきて、その自天王に兴味を感じるのは「私」になっているために、少しでも详しく物语の筋を说明しようとすると、たちまち复雑になるようになっている。
  すなわち「私」の物语かとおもうと、それがたんなる伏线で、実は津村が幼いときに见た上品な女性が琴をひいていて、その曲が『狐狯』であったことなどのほうが重要な筋なのである。

  こういう手法はまさに谷崎の独坛场で、そうでなくては谷崎は「日本」を说明しないという姿势が伝わってきて、圧巻なのである。
  その后に『盲目物语』『芦刈』とつづく谷崎得意の古典趣向の物语の幕开けにもふさわしい。とりわけ『芦刈』などは、日本の小说をバカにしている者が読んでみれば惊くはずである。まさに复式梦幻能のみごとな再生である。
  それゆえ、そういうのはいいのだが、その谷崎がエッセイで「日本」を语るとダメなのだ。とくに、あまりにも有名になった『阴翳礼赞』ともなると、ぼくにはなかなか承知できなくなってくる。谷崎がエッセイが下手であるのではない。随笔もたいへんな名手で、ぼくも『月と狂言师』をはじめ、いくつもの谷崎の文章を绍介してきた。
  が、随笔で日本のよさを伝えようとすると、下手になる。そこを书いておきたいのである。

  『阴翳礼赞』は、昭和8年から9年にかけて「経済往来」に书かれた。
  内容は日本家屋がもっている「うすぐらさ」を称扬するもので、それを说明するのに日本家屋の不便さをあれこれ引き合いに出している。谷崎が言いたいことは、煎じつめれば「薄明」と「清洁」の両立に日本の美意识が発端しうるということなのであるが、そこをけっして日本的には说明していない。下手なのだ。文章もうまくない。左官の镘が右往左往している。
  たとえば、漆器の美しさは暗が堆积しているところにあるという指摘は、その通りである。が、そのことを说明するのに、漆器の暗が文章そのものになっていないのだ。どうした谷崎、なのである。

  もし日本的建筑を一つの墨絵に譬えるなら、障子
  は墨色の最も淡い部分であり、床の间は最も浓い
  部分である。私は、数寄を凝らした日本座敷の床
  の间を见る毎に、いかに日本人が阴翳の秘密を理
  解し、光りと荫との使い分けに巧妙であるかに感
  叹する。

  この文章もへたくそである。巧妙とは何事か。谷崎がえらびきった言叶とはおもえない。
  后段、「いったいこういう风に暗がりの中に美を求める倾向が、东洋人にのみ强いのは何故であろうか」というくだりに入ってからも、谷崎のペンは冴えない。日本のお化けと西洋のお化けを比较したり、混血の话などをもちだして、话をぶちこわしてしまっている。
  结局、ぼくが纳得できたのは最后の最后の文章になってからで、「私は、われわれが既に失いつつある阴翳の世界を、せめて文学の领域へでも呼び返してみたい。文学という殿堂の橹(のき)を深くし、壁を暗くし、见え过ぎるものを暗に押し込め、无用の室内装饰を剥ぎ取ってみたい」と缀り、つづけて「それも轩并みとはいわない。一轩ぐらいそういう家があってもよかろう。まあどういう工合になるか、试しに电灯を消してみることだ」と结んだところくらいなのである。
  これはよくわかる。
  阴翳を文学にもちこむというのは、まさに谷崎のシナリオであって、戦略であり、また绝妙に成功させたところなのである。

  しかし、『阴翳礼赞』という文章をもって、谷崎が日本の美学や日本の美意识をなんとか说明してくれたなどとは、おもわないほうがいいい。
  むしろ谷崎润一郎が『阴翳礼赞』で「お茶を浊してしまった」ということが、その后のツケになっていたというべきなのである。
  逆に、谷崎を本来に帰って援护するのなら、われわれは『吉野葛』や『芦刈』にこそ阴翳礼赞をさがすべきなのである。